普通の一日を過ごしていた人が夕方頃になって急に「自分が今日一日何をしていたか全く思い出せない」と言い始める病気があります。これが「一過性全健忘」という病気です。
運転、講演、授業、会社の仕事などなど頭を使う仕事はすべて完ぺきにこなしたのに、その記憶が消失しているので、患者さんは非常に不安になって御家族と共に受診されます。これは中年以降の元気な方におこる4、5時間の発作で、発作中は「自分が何をしていたのか、どこにいたのか」などかを思い出せず、同じ質問を何度も繰り返す特徴があります。
檀家回りをした大変忙しい僧侶が夜になって急に「どこでどんなお経をあげてどんな説話をしたのか全く覚えていない」と言い始めるケース。学校の教師がきちんと一日授業をしたのにそれを全く思い出せないと言い始めるケースなど様々です。これらのような症例では古い記憶の一部も同時に失われる事がありますが徐々に回復してゆきます。その日一日の記憶も、発作から回復するとほぼ完全に思い出すことができるようになります。てんかん発作のように異常行動を伴う事はありませんし、重い病気の前触れではありませんので特に心配はありません。再発もまずないと考えていいでしょう。
この発作が起こるきっかけはよくわかっていません。誘因なく安静時に起こることもありますが、口論などの激しい興奮状態や痛み、過労などのストレスがきっかけになることが知られています。脳の中でいったい何が起こっているのかははっきりとはわかっていませんが、近年、感情中枢の扁桃体からグルタミン酸が大量に放出されると記憶中枢の海馬が一時的に抑制されるという説も発表されています。おそらく人間の記憶に関係している海馬、視床系の一時的な血流障害や精神活動をまとめている大脳辺縁系の障害が原因だと考えられますが、何も治療しなくても自然に回復してしまう不思議な病気です。